「ある物が面白いかどうかは、その物自身ではなくそれを見る人間が決めるのだ」というのは、私がバックパッカーとして海外を旅している時に得た大きな気付きでした。
博物館や美術館の展示品は、なんじゃこりゃ全然面白くねえ!と素通りする人もいれば、同じ物にすっかり魅了されて釘付けになってしまう人もいるはずです。
いったいその差はどこで出るのだろう?と考える時に、私は中国の旅のことを思い出すのです。
中国で私は、「三国志の古跡めぐり」をしていました。
バックパッカーであり三国志マニアでもあった私は、三国志の古戦場や武将のお墓など、ゆかりの地をめぐって半年近くも中国を放浪していました。
例えば初日に訪れたのは「定軍山」という山。
これは劉備軍の武将・黄忠が、敵の武将・夏侯淵を斬ったと言われる場所です。
でも、ただの山なんですよ。武将の像とか記念館とか解説パネルとかがあるわけでもない。ただの草木が生い茂る山!
しかしそのただの山が、マニアにとっては鳥肌ものの聖地なんです。
最初は「背景」でしかないんですよ。似たような山が4つも5つも並ぶ、ありふれた景色。面白くもなんともない。
ところが地元の人に聞き込みをして、「あの1番右が定軍山だよ」と教えてもらった瞬間に、右の山だけが特別な存在になるのです。ただの荒れ山が突然宝石のように輝き、「あ、あれが黄忠と夏侯淵が戦った定軍山かっ! マンガや小説で読んだあの戦場が今、俺の目の前に! うおおエモい!」と私は興奮の波にさらわれます。他の3つ4つの山と、なんにも見た目は変わらないのに。
三国志の旅では、同じような経験ばかりでした。
田舎のバスを何度も乗り換え、3時間かかってやっと辿り着く目的地は、ただの荒れた畑。しかしその畑の片隅に「漢昭烈皇帝劉備故里」なんて書かれた1本の石碑を見つけると、「きゃーーここが! ここが劉備がムシロを折りながら暮らしていた桜桑村かっ! 嬉しい! 泣いちゃう!!」と血湧き肉踊る大興奮なのです。
なお、そこで撮った写真を帰国後しばらくしてから見返すと「ん、なんだこの空き地の写真は? 意味わかんねえ」と混乱するのですが、日記を見返して「あ、そうだ、これは劉備故里の写真だ」と思い出すとまた「きゃーーーここが劉備の!」と畑の写真に興奮できます。

中国の旅を通して、「物の価値を決めるのはその物自体ではなく、それを見る人の心なのだ」ということを私は学びました。
見る側の思い次第で、ありふれた山や野原が宝になったりただの土塊になったり、コロコロと変わるんです。
どんなに平凡な景色でも、見る側がストーリーを持っていれば最高の観光地になる、それが私の気付きでした。
博物館や美術館の展示にも、同じことが言えるでしょう。
本来はどの展示品も固有の歴史とストーリーを持っているのだけど、見る側がそれを理解していなければ、ただの石になり土塊になってしまう。それを見る人の中にどれだけ思いがあるかによって、展示物の面白さは変わるんです。
もちろん物体としてのデザインや精巧さも魅力には関わるでしょうが、一番大きな点はそこではないかと私は思います。
そう考えると、「博物館の展示はどうやったら楽しめるのだろうか?」という時に、大事なのはむしろ博物館にいない時の活動ではないかと私は感じています。勝負はおおむね、鑑賞者が博物館に入る時点で決していると。
「博物館や美術館をいかに楽しむか?」は、極端に言えば「人生においてどのように教養に向き合うか?」に置き換えられる問いなのではないかと私は思います。